スタジオ・アリシアができるまで(2017年作成)

オリジナルを作り始めたのは中学時代。
その頃はギター1本での弾き語りで曲が完成していたので、それを録音して忘れないようにしていました。
マイク付きのラジカセに向かってギターを弾きながら歌って録音という方法でした。

中学3年の頃、ロックを知ります。後述のドラマー、今井君に誘われました。彼は小学校のときからの幼馴染です。
エレキを弾くようになると、多重録音して、自分のオリジナルにソロを入れたいと思うようになりました。

当時の方法は、マイク付きのラジカセ2台を使用するものでした。
まず、ラジカセに向かってアコギを弾きながら歌って録音。
それを1台のラジカセで再生し、その隣にエレキ用のアンプを置き、音量調整した上で、もう1台のラジカセに録音するというもの。
多重録音の始まりです。音質は劣悪でしたが、自分としては満足していました。
この方法で高校時代、学習雑誌の作曲コンクールに応募し入賞。
ただ、選評を読んだら、テープ審査では音質も重視されているようで、それじゃあ作曲コンクールじゃないなどと失望もしました。

1979年、TEACというメーカーがカセットテープを使用する4チャンネルのマルチトラックレコーダー「TASCAM144」を発表。
僕が大学に入学した頃、性能が向上した244が発売されました。今から30年以上前で20万円近くしました。
マルチトラックレコーダーというのは各チャンネルが独立して録再生できるようになっています。
ラジカセ2台を使った場合、2チャンネルでどんどん音が重なっていくため、最初に録音した音を消したくてもできず、
また、重ねるごとに最初に録音した音が劣化していきます。
マルチトラックレコーダーには、その心配がありません。
ということで、夏休みにバイトして購入。


これが初期の宅録の様子です。
ベースと机の上のリズムボックスは借り物。スタンドとマイクも借り物です。塗り替える前のお宝ギターが写っています(^o^)
まず、曲の構成を決めてリズムボックスを録音。次にバッキングのギターとベースの計3チャンネルを録音。
この3チャンネルのバランスをとって、残りの1チャンネルに録音(当時はピンポンといいました)。
これで、バッキングトラックが完成。で、リズムボックスなどのチャンネルを消して、歌とリードとコーラスを入れ
最後に、カセットにミックスダウンするという工程が多かったです。
大学は東京だったため、地元の友人とやっていたバンドもできなくなり、僕は専ら勉学と宅録に勤しみました。
大学卒業後は、国家試験を受験するため、東京に残りつつ、時はバブルということで1年の半分を実家の手伝いで信州に、
試験の6ヶ月前になると東京に行って勉強という生活で30歳過ぎまでを過ごしました。

ドラマーで建具屋の友人(今井君)がドラムの練習場所が欲しいというので、我が家の物置の一角を囲って練習場を作りました。


で、写真の如く電気も通っていない場所ですが、逆に人里離れているため防音する必要もなく、いつでも思い切りドラムが叩けました。
僕も暇をみつけては、ドラムを叩かせてもらって、生ドラムの魅力を知ることになります。

やがて今井君は小型の発電機を購入し、仲間のギターとベースを連れてきて、ここでバンド練習をするようになりました。
僕も仲良くなり、帰省した折には一緒に演奏しました。大きな音を出せるので、僕の所有するギターなどもこちらへ移動しました。


この練習場を作ったことで、音楽仲間が持ち込んだ高出力のアンプの魅力も知りました。
そのバンドは約5年くらい続いたと思いますが、結婚、転勤などで解散してしまい、
その間の場所のレンタル代金ということで、機材が残されました。
生ドラムの魅力と高出力アンプの魅力を知った僕は宅録の本拠をこちらに移動しました。

天井から2本のコンデンサーマイク(今井君の所有物で、現在も新スタジオで活躍しております)と
カラオケマイクでバスドラムの3チャンネルをステレオでミックスして
244の2チャンネルに録音。ステレオピンポンしながらベースとバッキングギターを録音して、
残りの2チャンネルに歌とギターソロを入れるという工程。
生ドラムと高出力アンプによるバッキングは非常に充実していて、音をたくさん重ねる必要がありません。
これにより、生楽器による宅録の魅力を知ることになります。

その後、今井君が自宅にドラム練習場を作ったため、ドラムを回収。写真のテレキャスも回収されてしまいました。
くれるといったのに納得できませんでしたが、古くからの友人だったので了承。
その頃、すでに生ドラムの魅力にとりつかれていた僕は中古(20万円)でドラムセットを購入。

巨大過ぎて今までの練習場には入りませんでした(^o^)
廃材のパイプを利用してマイクスタンドを自作し、980円のカラオケマイクを沢山購入して
ドラムのマルチマイキングの魅力を知りました。

国家試験をあきらめて家業を継いでいた1997年、現在の地に自宅を新築しました。
といっても住むのは両親。完成後は僕が丸子の実家で暮らすことになっていました。


生楽器による宅録をお気軽にしたくて、新築前からあった農機具小屋の一角にスタジオを作りました。
今井君が協力してくれて2ヶ月くらいかけて作りました。
自宅の落成と同時にスタジオも完成しました。ドラムブースとプレイルームの2部屋です。


この頃、録音機材は4チャンネルから8チャンネルのマルチレコーダーにグレードアップしていました。
まるでビートルズの時代にチャンネルが増えたのと同じように、僕の音楽性も変わってきました。
ギターやベース以外にキーボードやギターシンセなどを使って、よりポップな音作りに変わっていきました。

1997年末に自宅が完成し、両親が移り住みました。
ところが冬に引っ越したため寒く、また、母が運転できないため便利な丸子のほうがいいといって
2週間ほどで丸子に戻ってしまい、僕がここで暮らすことになりました。
この当時はこんな状態。元々水田だったのを宅地転用したため、雨が降ると泥だらけ。
そのため、解体工事で回収したALCを敷いて通路を作りました。

この年、僕は現在ライブハウスブレイクのマスター清水さんに頼まれて、現在のブレイクの建築のお手伝いをしました
それまで僕の音楽的な活動は宅録のみで、アマチュアの方々との交流は全くありませんでした。
ブレイク建築の際、地元アマチュアの方々と知り合い、僕がドラムを叩けることから、複数のバンドに頼まれて
ブレイク落成後にドラマーとして人前にデビューしました。
で、そのバンドが、ブレイクの予約が埋まっているときは、ここに来て練習するようになりました。もちろん、無料です(^o^)

宅地にしたため農機具を置く必要がなくなりました。ということで、農機具倉庫のスタジオ以外の部分に床を貼りました。
トイレは母屋のを使用していました。その後、壁は工事で養生用に使ったコンパネを貼り、壁紙も自分で貼りました。
使わなくなった家具を持ち込み、ラウンジが完成しました。

僕は本来宅録人間なので、掛け持ちのドラマーは1年ほどでやめましたが、その後、新たなドラマーを迎えたバンドが
やはりここで練習したいということになりました。こうなると無料というわけにはいきません。貸しスタジオの始まりです。
ブレイクの清水さんがホームページを立ち上げた際、僕のスタジオを提携の録音スタジオでリンクしたいということになり、
スタジオに名前をつけなければならなくなりました。で、大好きだったSF小説「レンズマン」からアリシアの名前をいただき、
僕は自分をメンターと名乗ることにしました。

「スタジオ・アリシア」の誕生です。

録音スタジオとして名乗りをあげたため、レイアウトの変更をしました。

リサイクルショップで買った12チャンネルのミキサーの替わりにマッキーの1604vlzというミキサーを購入。
以後、僕はマッキーのミキサーばかり使うようになります。

藤原田に練習場を作ったころに知り合ったギタリスト丸山彰一君が
地元で活動しているバンドの録音でここを使用することになり、彼はハードディスクレコーダーを持ち込みました。
また、同じ時期、H2Oの赤塩正樹さんが、上田市制80周年のイメージソングをこのスタジオで録音することになりました。
ということで、コントロールルームを増築しました。
これによって、ハードディスクレコーダーの魅力と、打ち込みの魅力を知りました。


録音機材は、カセットマルチから16チャンネルのハードディスクレコーダーへグレードアップ。
この当時は、スタジオは本業ではなく、貸しスタジオでもらった料金を機材購入にあてており
マイクやモニタースピーカー、アウトボードなどが充実していきました。
マスタリングはコンプレッサーとイコライザーで行い、それをDATに録音するという形でした。

イメージソングで知り合った赤塩さんとはその後も交流が続き、パソコンの導入を勧められました。
で、いよいよ、アップルの高価なパソコンを購入して、打ち込みの世界に入ることになります。

パソコンでのオーディオ録音はインターフェイスが高額だったり頻繁にフリーズするという話だったので、
パソコンで打ち込み音源を鳴らして、MIDIで同期したハードディスクレコーダーのオーディオデータとミックスするという工程で録音していました。

この環境にした頃、バンド活動中に知り合ったギタリスト箱山高大君が連絡をくれました。
彼はバンドのギタリストでしたが、実は宅録マニアでもあり、しかもパソコンに詳しいとのこと。
で、彼が色々と設定してくれることになり、遂にオーディオインターフェイスの購入に踏み切りました。

これによって、現在のスタジオの原型が完成しました。

ドラマーとして約20年前、人前にデビューしましたが、
その後、ギターやベースも弾けるということが知られて、
複数のバンドやユニットを掛け持ちして活動することになりました。
その結果、音楽関係の知り合いが増えて、口コミでこのスタジオの存在も知られるようになりました。

僕はまだ本業がありましたが、だんだん、このスタジオの利用者も増えてきて、
特にバンド練習で使われるようになってきました。
いただいた使用料により機材はますます充実してきました。
より練習しやすい環境にしていくため、利用者からも好評で、
さらに利用者が増え、新規の方が入れず、また、このスタジオの一番の売りである録音すら
断る状況になってしまいました。

また、利用者から、ライブを想定した鏡付きのスタジオが欲しいという声がありました。

ちょうど不況で、また従業員の高齢化で本業のほうも見切りをつける時期になっていました。

スタジオにも固定客がある程度ついており、その方々からも勧められました。
で、遂に2010年、新スタジオの増築を決意しました。


新スタジオの増築(2010年)

スタジオに隣接したガレージをやめて、そこに新スタジオを作ることにしました。
建築費用は約200万円。貯金を使いました。外壁とコンクリート工事で約100万円。
内装は自分でやり、今井君にも手伝ってもらいました。今はネットで安く資材が購入できます。
旧スタジオを作った頃には不可能でした。しかも、資材は通販でここまで運搬してもらえたのでトラックがなくても大丈夫でした。
電気工事はスタジオを長年利用している滝沢電気工事さんにお願いしました。約2ヶ月で完成。
これを機に本業を辞めて、貸しスタジオのみで生計を立てることにしました。


貸しスタジオを本業にしたため、機材の充実は全て必要経費ということになります。
もともと楽器が好きだった僕にとっては趣味と実益が一致しました
日々の暮らしにはそれほどお金がかからないので、リサイクルショップなどで出物があると迷わず購入。
また、スタジオである以上、あったほうがいいと思われる機材なども購入。
結果的に機材が充実しました



今までのスタジオは旧スタジオとなり、録音と練習の両方に対応できるようにしました。
また、新スタジオでも録音ができるようにし、色々な要望に応えられるようになりました。

旧スタジオを作った頃に高額だったパソコンも現在は中古で5万円くらいで買えます。
今や、打ち込み用の中古パソコンを数台所有し、打ち込みなどの依頼に対応できるようにもなっております。


こうして、30年以上の月日をかけて、現在のスタジオになりました。
これからも、手を加えて、より使いやすいスタジオにしたいと思っております。 以上。